プレゼン①
亀池不思議フィールドワークへようこそ
T小学校の校舎の窓から、桜の木の向こうに大きな池が見えます。県立自然公園に指定されている亀池です。いつも穏やかな水面に空の青と山の緑を映し、子どもたちの成長と地域の人々の暮らしを、優しく包みこむように見守り続けています。
亀池は、今から300年も昔、ブルドーザーもショベルカーもない時代に、簡単な道具と人間の手だけで築造された人工の池なのです。周囲を歩いて一周するのに、1時間はかかります。こんな大きな池を、いったい誰が、どんな目的で、どのようにして造り上げたのでしょうか。
ある秋の午後、T小学校の4年生は、亀池の周辺を探検に行きました。社会科の地域学習です。そして、見つけたこと、疑問に思ったことをもとに、グループに分かれて調べ学習と発表に取り組みました。
さあ、みなさんもごいっしょに、探検とグループ発表(プレゼンテーション)が同時進行の亀池不思議フィールドワークに出かけましょう。
亀池大堤の上を行く
亀池大堤の石碑調査・・・Aグループの発表
今は県立自然公園となって、整備されて いる木立の中の遊歩道を下りていくと、広 い大堤の上に出ました。その大堤の端に 大きな石碑が建っています。
石碑の中央には、
故井澤弥惣兵衛翁之碑
大正◯年甲寅初秋
侯爵徳川頼倫書 印章
注)◯の字は、
と刻まれていました。
N.先生からのプラスα
「故」とは、「亡くなった人」のことで、「翁」とは、「男性の高齢者」のことだね。
何々、この書を書いた人は、徳川頼倫さんだって!確か、紀州藩最後の藩主の跡を継いだ方だね。
なるほど、江戸幕府がなくなってしまった後は、侯爵という身分になられたのか。
「大正三年寅年の秋の初めに、確かに書いたよ。」と印章が押されているんだね。(ただし、この石に文字を刻んだ人は別だよね。)
亀池大堤の石碑調査
井澤弥惣兵衛さんというのが、この亀池を造った人なんだ。
那賀郡野上庄溝口村の人だって。
石碑のうらに長い文章が刻まれていて、
- 亀池の工事は、宝永七年(1710年)
- 正月十六日から始めて四月二十日に仕上がった。(およそ三か月間)
- のべ五万五千人の人がたずさわった。
- 亀池の水は、南野上村冷水の亀の欠というところから引いて来ている。
- 阪井以外に十か所の田地をうるおしている。
- 以来、二百年たっても、一度も干ばつの被害にあったことがない。
ということだよ。ほかにも、
「費用銀七十壱貫匁、其の面積十町歩、深さ八間、周囲三十余町、樋の長さ四十二間、任せ溝三十二町」
とか書いているけど、よく分からないよ。
とにかく、後の人たちにもずっと感謝されていたことがよく分かるね。
だけど、後の人たちが、どうしてこの大堤のこの場所に石碑を建てたのか、不思議だな。歴史民俗資料館の館長さん、教えてください。
「それはだね。大堤は、弥惣兵衛さんがもっとも力を入れて造ったところです。今まで一度もこわれたことがありません。 そして、一番目立つ所だし、しかも、すみの方なのでじゃま にならない所として、あの場所を選んだと思います。」
なるほど。よく分かりました。
じゃあ、今、私たちが石碑を建てるとしたら、どう? 県立自然公園になって、遊歩道とか広場とかも整備されているから、他にも、目立つ場所があるんじゃない?
その後、石碑を建てる場所をめぐって、さまざまなアイデア(?)がとび出しました。
おやおや、話はとんだ横道に反れてしまいましたが、反れついでに、わたしも、名(?)推理を。
N.先生の名推理
石碑が大堤の端の方、山側に南北に建てられていることについて
実は、O先生の名推理なんだ。
いわく、
「亀池の北側に大堤があって、東西は山なので風は南北に吹きぬける。特に、冬の北風は強く当たると思われるので、少しでも風当たりを避けるために、山側の方に南北に建てたのではないだろうか。」
だって。
みんなは、どう思う?
N先生は、「なるほど。」と納得したよ。
これが事実だと考えると、十一か大字の水利組合の人たちは、本当に考え深いんだね。
N.先生からのプラスα
水利組合って?
亀池の水を利用するお百姓たちが水を取り合ってもめたりしないように、また、水路などがこわれたりしたら協力して直せるように、自分たちで協力する団体を作っていたんだね。
この水利組合は、今もあるよ。現在は13地区になっていて、事務所はK小学校の前にあるらしい。
さて、話を元にもどしましょうね。
石碑のうらの文です。なるほど、読むのがむずかしそうです。Aグループの発表も続きます。
石碑のうらに刻まれた文
亀池大堤の石碑調査・・・Aグループの発表 続き
碑文にあった「阪井外十箇大字」というのを調べたよ。それは、
- 且来
- 多田
- 岡田
(以上、現在の海南市亀川地域)
- 仁井辺
- 小瀬田
- 薬勝寺
- 本渡
- 内原
- 毛見
- 紀三井寺
(以上、現在の和歌山市の南地域)
の十の地区ということだよ。
この亀池の水を、合わせて十一地区が田地に利用したんだね。
海南市だけじゃなくて、和歌山市の地区まで水を利用しているんだね。驚いたなあ。
あれ、それなのに近くの小野田地区が入っていないね。小野田地区のお百姓さんは、亀池の水が必要じゃなかったのかな?
N.先生からのプラスα
海南市岡田に住んでいるM先生に聞いたお話だよ。
「家に田んぼがあるので、毎年、亀池の水をその田に入れて(引いて)います。
6月10日ごろになると、水利組合の方から、『亀池の樋を抜く。』というお知らせがきます。そして、阪井地区から順番に、地区ごとに各家の田んぼに水を引いていきます。水引き担当の人がお世話をしてくれます。
今、どの田んぼに水を入れているかは、赤い旗を水路に立てて知らせます。その旗を見て、『もうすぐ自分の家の田んぼだな。』と思って、田に水を入れられるように準備を始めます。」
今も、亀池の水は、農家の役に立っていて、大切に使われているんだね。
N.先生からの?(はてな)
小野田地区の名前がない?
本当だね。
亀池が築造された時には、小野田村は、何かの事情で加わらなかったんだろうね。
その後、どうなっていったんだろうか。
どこかのグループが調べてくれているかな?
弥惣兵衛の一生と仕事・・・Bグループの発表
弥惣兵衛の一生と仕事
ぼくたちは、亀池を造った弥惣兵衛さんとは
どんな人だったのかを調べたよ。
- 1663年(寛文三)紀州藩溝口村(現在、海南市野上新立石)で生まれた。*1654年説も。
- もとは、根来寺の僧籍の出だが、この頃は、広い土地を持つ農民であった。
- 大変算数が得意だったらしい。天狗に、学問を教わったという言い伝えが残っている。
- 二十八才(1690年)のとき、紀州二代藩主光貞公に召しだされた。
- 伊都学文路村の大畑才蔵に協力を頼んで、小田井用水を完成させた。
- 亀の川の改修、亀池の築造、佐々の井用水。
- 八代将軍となった吉宗に江戸へ呼ばれた。新田開発のための治水・利水事業で活躍をした。
- 見沼代用水路、見沼通船堀、他にも。
- 1738年 江戸で没。(七十六才説と八十五才説)
ゆうちゃんは、お母さんの車で、野上新立石の生誕の地まで行って、写真を撮って来てくれました。
ゆうちゃんの家は阪井地区の東の端だから、県道奥佐々 阪井線を紀美野町の方に行くと、わりと近くだそうです。
道路のそばに、よくわかるように、生誕の地を表す立派な大看板と石碑が建ってあったそうです。
生誕の地に建つ顕彰碑(前)
「井澤弥惣兵衛生誕地」
(後)「海南・野上土地改良区 平成十年三月」とある。
N.先生からの?(はてな)
このような石碑が建てられるのは、どうしてだろうか?
- 「人の役に立つ、えらいことをした。」と知らせるため。
- 川を直し、池を造ってくれたことに感謝しているから。
- 人々を助けたから、それをわすれないように建ててあると思う。
あなたはどう考えるかな?
年表にして主な出来事を整理しよう。
江戸幕府八代将軍吉宗と井澤弥惣兵衛
| 時代 | 西暦 | 徳川吉宗 | 井澤弥惣兵衛 |
|---|---|---|---|
| 江戸 | 1603 | 家康が江戸に幕府(政治をする所)をひらく。 | |
| 1663 | 紀州溝ノ口村に生まれる(1654説も) | ||
| 1690 | 紀州2代藩主光貞に召し出される(28才) | ||
| 1705 | 吉宗が紀州5代藩主になる。 (弥惣兵衛に命じ、県下の利水・新田開発を行わせる。) (新田を増やし、紀州藩の財政を立て直す。) |
(大畑才蔵と協力して、小田井用水などの工事) | |
| 1707 | 9月亀の川改修(新川)工事が完成する。 | ||
| 1710 | 4月亀池が完成する。 | ||
| 1716 | 吉宗が8代将軍になる。 (弥惣兵衛に命じ、江戸周辺の利水・新田開発を行わせ、米将軍といわれる。) |
||
| 1722 | 将軍吉宗に江戸へ召し出される(60才) (見沼代用水路を始め、全国の利水・新田工事) |
||
| 1737 | 病気のため、役人を辞める。 | ||
| 1738 | 3月 76才で没す。(心法寺)(85才説も。) | ||
| 265 | 1867 | 江戸幕府がたおれる(15代) | |
| 時代 | 西暦 | 全国 | 和歌山 |
| 明治 | 1868 | ◯明治維新。江戸が東京となる。 | |
| 44 | 1871 | △明4紀州藩が和歌山県となる。 | |
| 大正 | 1912 | ◯大正元年 | |
| 1914 | △大3亀池の大堤に【ア 】を建てる。 | ||
| 14 | 1917 | △大6徳川頼倫 和歌浦東照宮近くに双青閣を建てる。 | |
| ① | 1926 | ◯昭和元年 | |
| 1931 | △昭6【イ 】を築造する。 | ||
| 1941 | ◯昭16太平洋戦争が始まる。 | ||
| ③( ) | ◯昭20太平洋戦争が終わる。 | ||
| 63 | 1968 | △昭43双青閣が亀池の【ウ 】に移築される。 | |
| ② | 1989 | ◯平成元年 | |
| ④( ) | ◯平( )年ぼく・わたしが生まれる。 | ||
| ⑤( ) | ◯平17年4月T小学校へ入学する。 | ||
| 21 | 2009 | △4年「亀池と井澤弥惣兵衛」の学習をする。 |
亀池が完成したのは、今から⑦( )年前ですね。計算してみましょう。
①②には元号を、③〜⑦には数字を、ア〜ウには言葉をいれましょう。
将軍家・紀州徳川家系図
井澤弥惣兵衛と大畑才蔵
| 弥惣兵衛 | 才蔵 | ||
|---|---|---|---|
| 1642 | 伊都学文路村に生まれる。(21才差) | ||
| 1663 | 那賀溝口村に生まれる。 | ||
| 1690 | 紀州藩役人となる。野上八幡宮に手水鉢を奉納する。 | ||
| 1696 | 才蔵に会う。 | 1696 | 村に住みながら、藩の仕事をすることを約束する。 |
| 1697 | →指示 | 1697 | 藤崎井用水開削。 |
| 1700 | ←報告 | 1700 | 同 完成。 |
| 1707 | →指示 | 1707 | 小田井用水第一期工事完成(これより10年間) |
| 1707 | 亀の川改修工事始。 | 1707 | ←協力 |
| 1710 | 亀池築造。 | ||
| 1711? | 佐々の井用水改修。 | ||
| 1720 | 9月没す。(79才) | ||
| 1722 | 江戸へ(60才) | ||
| 1723 | 幕府の役人となる。 ※新田開発・水利事業に全国で活躍。 |
||
| 1728 | 見沼代用水路完成。 | ||
| 1731 | 見沼通船堀完成。 | ||
| 1737 | 病気のため引退。 | ||
| 1738 | 3月江戸で没す。(76才)※85才説も。 | ||
*年齢は、才蔵のほうが21才(12才?)年上だったので、弥惣兵衛は、先輩として土木工法の基本を教えてもらい、その後、紀州流(工法)を工夫して、活躍したんだね。