プレゼン③
亀の川の造りかえ工事
さて、ここで、亀の川について調べて発表してもらいましょう。
亀の川の造りかえ工事・・・Eグループの発表
昔の亀の川は、且来→多田→本渡の山裾を通って、現在の紀三井寺川の流路から和歌川の河口へ注いでいたんだ。
【下の地図の赤い線の部分。】
くねくねと曲がっていたので、大雨が降るとしばしば洪水が起こり、周りの田地や畑を水浸しにしてしまっていたんだって。
弥惣兵衛さんは、亀池を築造する三年も前に、亀の川の造りかえ工事をしていたんだよ。
1年9か月もかかった工事で、大畑才蔵さんに1年近く手伝ってもらった記録が残っているよ。働いた人数とか費用とかは、F館長さんに聞いても記録がなくて分からなかったけど、とても長くかかっているから、亀池以上の大工事だったんだろうな。
わたしは、弥惣兵衛さんが子どもの頃に、曲がりくねった川だから水害が起きることに気づいた、という言い伝えを読んだよ。
「やそべえさんが八才の頃、お父さんと紀三井寺さんへお参りに行きました。阪井、小野田、且来と亀ノ川の堤を歩いて行きました。
この頃の亀ノ川は、度重なる水害のために、付近の村人たちは大変に困っていました。
父のこんな話を聞いて、『こんなに曲がりくねった流れでは、洪水が起きるのは当たり前。真っ直ぐ西へ毛見浦に流せば、洪水は起きないだろうに。』と言って父を驚かせました。」
そして、後に、紀州藩の役人になってから、その言葉どおり、亀ノ川の流れを変える大工事を完成させたと言うことだね。(*下の地図の青い線の部分)
造りかえて真っ直ぐになった部分を、地域の人たちは「新川」と言うんだって。智べん学園の下を通って、マリーナシティの近くの海へ流れていくよ。
川の造りかえは、次のようにしたんだよ。
- 蛇行する亀ノ川を直線に改修。
- 高さ二間余(4m)の堤、川幅七間半(13,5m)、長さ一里十九町(4,2km)
- 天井川に造った。(川床が周りの土地より高い。)
- この水を内原の低湿地を水田にするのに使った。
- 内原より西へも川を掘り進めて、片男波の南端で海へ流した。その周りは、干拓地となった。
新しい川の周りに、田地が広がったんだね。
N.先生からの?(はてな)
亀の川を真っ直ぐにする改修工事が、
亀池を築造するより先に行われたのは、どうしてだろうか?
- 水害になって、農民が困っているから、先に工事したと思う。
- 曲がったままだと、せっかく亀池を造って水を流しても、そのせいで洪水になったら困るから。
あなたはどう考えるかな??
N.先生からのプラスα
「天井川に造った」とは
亀池の工事ときびしいきまり
さまざまな学習をしながら、4年生の探検隊は、亀池の南側までやってきました。出発からたっぷり2時間は過ぎています。亀池不思議フィールドワークも終わりに近づきました。つかれたあ〜。
↑木々の間から、はるか向こうに北の大堤が見える。
↑さらに進むと、中島双青閣のうら側が望める。
↑この坂を登れば、T中学校の上にのびている道へ出る。
ところが、次の日の教室では、亀池の工事をしたときのきまりのきびしさが問題になりました。弥惣兵衛さんがきまりを「きびしく」した理由を、石碑が建っている北の大堤の上で考えようと、もう一度、みんなでやってきました。
亀池の工事ときびしいきまり・・・Fグループの発表
わたしは、亀池の工事のやり方を調べた。今とちがって、機械がない時代だったから、土木工事はすごく大変だなと思ったよ。
- 昭和二十八年にこの池の大きさを測った。
- 堤の高さが16m。
- 池にいっぱい水をためると、教室をマスにし2,000杯。一日中流し続けても、75日分ある。
- 仕事の方法は紀州流と言われる。…明治になって、西洋の方法が取り入れられるまで続いた。
- 測量に使う道具…数本のろうそく、竹ざお、水盛台、ちょうちんなどで夜に測量。
- 工事に使える道具…土を掘るのは、木のスコップ、くわ(木か鉄)
- ダンプカーなどなかったから、「もっこ」というわらで編んだ入れ物で二人で土を運んだ。
- あとは、人間の手。知恵と工夫と技術。
- のべ55,000人で、96日かけて仕上げた。
ぼくは、亀池ができる前の様子を調べた。本でも調べたけど、くわしく知りたかったので、歴史民俗資料館へ行って、館長さんにもお話を聞いてきたんだ。よく分かったよ。
亀池を造る前は、谷田池という小さな池があったって、【*ちょうどつり橋の下の辺りだね。】その池の東側に中山という小山【*今の中島のことだね。】があって、その中山と西の山裾をつないだ堤が今も残っているらしいよ。低い堤だから、いつもは池の水にかくれているけど、水が少ない時には、池の底に見えてくるそうだ。
やそべえさんは、中山の周りの低い土地を掘って、谷田池を大きくしようとしたんだな。そして、掘った土をその北側に積んで、高いしっかりした堤を築いた。それが今の亀池だ。
谷田池があったなんておどろきだよ。それに、今の亀池はあんなに大きいのに、人間の手で池を広げたり、土を積んでいって高い堤にしたり、すごいことだね。
N.先生の名推理
やそべえさんが亀池の築造をした時は48才で、紀州藩の役人になって、すでに20年。この間に、藤崎井用水や小田井用水(10年間)、亀の川改修と大工事をやってきたが、常に大畑才蔵がいたね。
しかし、亀池の築造は、自分が先頭に立って行った。工事のやり方や仕事のきまりなどは、それまでのやり方を引き継ぎ、でも、すごい決意でやったのだろうね。
なるほど当時としては大掛かりな工事だったでしょう。機械も便利な道具もないから、大勢の人手を必要としたのですね。
では、「きびしい。」という声があったきまり=仕事のやくそく(おふれ書という。)を見てみましょう。
- 朝、日の出前には仕事場にいなければいけない。もし、おくれたりすると、銀一匁五分(1日の賃金)を罰金として収めること。
- 大雨が降っても、勝手に仕事場を離れてはいけない。
- 刀を差して、仕事場に来てはいけない。
- 約束の日までに自分の持ち場の仕事ができていないと、夜も休まずに仕事をつづけなければいけない。
どうでしょうか。発表を聞いてみましょう。
亀池の工事ときびしいきまり・・・Fの発表 続き)
いろいろ調べたけど、はっきりした答えは見つからなかった。でも、多くの人の手で時間と労力をかけて造るには、ルールが必要だったということは分かったよ。そして、みんながきまりを守って造り上げたから、300年たってもこわれない亀池ができたんだと思ったよ。
館長さんのお話
「やそべえさんは、部下の役人にはきびしくしたが、農民には相談にのったりしてやさしかったんだよ。とてもまじめな性格で、仕事に一生懸命の人だった。
工事は、いくつかの組に分けて場所を分担して、自分たちの責任を果たすように考えたんだね。」
N.先生からの?(はてな)
- Fグループの発表を聞いて、「きまりのきびしさ」について、どう思ったかな?
- どの項目が特にきびしいか。
- 「きびしく」した理由として考えられることは。
- 亀池の工事は、一月から始めて四月に完成させているね。その工事の時期や日数(96日)については、どう思ったかな?
N.先生の名推理
亀池の工事日数を約100日として、1日の人手は、
55000人÷100=550人
11箇大字に分けると、
550人÷11=50人
で、1大字(地区)毎日50人ずつ人手を出した計算だね。
日当も銀一匁五分(約5000円)払ってくれたんだね。
亀池を造ること、四月までに(田を耕し始める時期)仕上げることは、農民の願いでもあっただろうから、「きまり」を守り、懸命に働いたことが想像できるね。
水の行方 〜再び、亀の川へ
亀池に溜められた水は、毎年、田に水を引く五月頃になると樋の口が開けられ、再び亀の川へ流されます。その流れてゆく水路を確かめましょう。
↑向こうに見えるのが樋の口。開閉軸6箇所。
↑長さ42間(約76m)の土中の樋を通ってここへ出てくる。
↑この水路を流れていく。左は西念寺。
この後は、阪井郵便局の横の水路を通り、通学路になっている健康ロードの下を抜け、再び亀の川へ流れていきます。そして、ここより下流に設けられている取り入れ口から田に水がひかれていくのですね。
紀州流(工法)について
弥惣兵衛さんの土木工事のやり方は、「紀州流」といわれますね。最後のGグループにくわしく説明してもらいましょう。
紀州流について・・・Gグループの発表)
紀州流の基本は、水(自然)をコントロールすることだよ。 その特徴は、次のような点だね。
- 洪水を防ぐために、しっかりした堤防を造る。
- 曲がった川を真っ直ぐにする。
- ため池やあれ地を新田に造りかえる。
- 遠くの大きな川から水を引いてくる。
- 使った水は、水路を掘り下流へ流す。
インターネット資料
紀州流について・・・Gグループの発表)
見沼代用水路(埼玉県)とかは、すごく大掛かりな工事をやったけれど、測量とかに使った道具は、簡単だったよ。それよりやそべえさんは、自分の足で時間をかけて歩いて見てまわったんだって。
見沼代用水路の工事は、利根川の水を60kmも引いてきたんだけど、水盛器を使っての誤差は、6cmだけだった。すごく正確だったんだ。
手作りの水盛器(館長さんにいただいた資料)
見沼の時は
- ちょうちんと花火を使った
- 空気の澄んだ秋に測量した
「見沼」のI.S氏の資料を借用
紀州流について・・・Gグループの発表)
「紀州流」というから、他に「○○流」ってあるのかと思っ て、インターネットで検索したらあった。
関東流(伊奈流とも言う。)
- 伊奈氏によって始められ、やそべえさんの前は、このやり方だった。
- 自然を利用したやり方で、洪水の時に水を逃がす遊水池や溜池をたくさん造る。
上方流
- 岸に堤を造るやり方で、淀川や大和川の工事に使われた。
- 大畑才蔵がこの工法を学んで、小田井用水などの工事に使った。
「見沼代用水路と見沼通船堀」については、海南市歴史民俗資料館のF館長にお話をうかがった。
N.先生からのプラスα
見沼代用水路は、紀州流+関東流(甲州流)の技術で造り上げた!?
日本一大きな川、利根川からの水をはるばる取り入れるには、途中2つの川を横断して水路を造らなければならなかった。
やそべえさんが綿密な調査をして、1つ目の元荒川は、川底の下をトンネルでくぐらせる伏越(サイフォン式)、2つ目の綾瀬川は、川の上に橋をかけて渡す掛渡井で水路を通した。どちらも木造なので、江戸の大工さんの力を借りたそうだ。他にも水路のあらゆる箇所に紀州流の技術を生かした仕掛けや工夫がなされている。
ところが、見沼の湿地帯では、やそべえさんが病気になって寝込むほど工事が難航してしまう。そこで、関東流(元は甲州流)のやり方を取り入れて、地山に沿って蛇行させて水路を完成させたそうだ。
「見沼を住処とする龍神が、やそべえさんの人柄と熱意に心を動かし、恨みを超えて水路の道筋を教えた。」という龍神伝説として、その逸話が残っている。(「見沼」のI.Sさんのお話から。)
N.先生からの最後の?(はてな)
やそべえさんがした仕事の中で、最もすぐれていると思うことを1つ選んで
【 】に◯をしよう。そのわけも教えてね。
遠くの川から水を引いて用水を確保した。
川・池の堤がこわれないようにしっかり造った。
川の流れを真っ直ぐに変えたりして、洪水を防いだ。
用水路や川にいろいろな仕掛けを考えて、とても工夫している。
用水を確保して、ため池や沼地・荒地を新しい田にした。
利用され続けて、現在の農業や生活に役立ち続けている。
その他。【 】
A 亀池の大堤を歩いた時に、とてもしっかりしていると思った。
B 川が曲がっていると堤を水が超えやすいから、真っ直ぐにするアイデアがすごい。
C 見沼代用水路が、今の地下鉄の原理で造っていて、おどろいた。
あなたはどう思うかな?
これで、亀池不思議フィールドワークはおしまい。次は、創作劇で楽しんでね。
この絵本を作成するに当たって参考にさせていただいた資料
(2010年当時)
- 海南市歴史民俗資料館の展示資料
- 『井沢弥惣兵衛』(海南市海南歴史民俗資料館)
- 『井沢弥惣兵衛翁』(同)
- 『わたしたちの海南市』(海南市教育委員会)
- 『ふるさとをたずねて』⑰(同)
- 『双青閣のしおり』(海南市役所 観光協会)
- 『井沢弥惣兵衛』I.S 著(見沼代用水土地改良区)
- 『水の匠・水の司』高崎哲郎・著(水資源機構月刊誌「水とともに」より)
- その他、インターネット検索による諸資料
- 都市地図 和歌山県1・5(昭文社)